夢の中で、わたしは強制収容所にいた。
ひもじく、寒く、死と毎日直面している
厳しい環境の中で、わたしは平和だったときの或る会話を
思い出していた。
「幸せになりたいなあ」
「でも、どうしたら幸せって感じるんだろう」
「幸せって何なんだろうね」
「いまよりいい状態じゃないかな」
あの頃、死の恐怖もなく、労働を強いられることもなく、
欲しい服を買って着て、好きな友人たちとごちそうを食べて、
でもいつも幸せになりたいって思っていて、
幸せだとは思わなかった。
いま、食べ物もろくにない、こんな環境の中で
或る人の温かく力強い手と肯定する目と存在が
「幸せ」だと感じさせる。
これが幸せの筈がない、神経が麻痺したのだろうか?と
思いつつも、この人の存在と触れ合えた幸せを
毎日感じてしまう。
会えてよかった。この人の魂に触れるためだけに
生まれてきたと言ってもいい。
そんなふうに思う。
幸せというのは、自己以外とのコミュニケーションにおける
至福感と定義してもいいかもしれない。
それは人間であったり、神であったり、自然であったりするかも
しれない。
なにか「出会えてよかった」という感動的なものとの
交わりによって幸福感は味わえる、というのは
この極限下での絶望的哲学であって、
普遍的真理ではありえないだろうか???
ここで目が覚めた。
この出会えてよかった人の顔はコルベ神父の顔だった。
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