夢の中で神様が言います。
「予知や夢見や卜(うらない)の能力はあくまで『グリコのおまけ』みたいなもの。
なくてもいいけど、あったほうがさらにいいってものだから、
あくまで本体のキャラメルを忘れないようにしないといけないよ。」
わたしが訊ねます。
「本体のキャラメルとはどのようなものを言うのですか?」
神様が答えました。
「慈悲だよ。」
「慈悲というのは、慈と悲の2つの言葉が合わさったものだ。
『慈』はmaitrī。弥勒菩薩のマイトレーヤの語源にもなってる言葉で、
立場や利害などなくすべてのものにたいして、平等に
friendship、brotherhoodを抱くこと。
相手の幸福を願って、相手と共に喜べる気持ちを意味している。
『悲』はkarunāというサンスクリット語で、苦しみを取り除いてやりたい気持ち、
助けてあげたい気持ちを意味する。」
わたしが訊ねます。
「それは最近よく言われていた『抜苦与楽』と同じものを
別の言葉で言い表しているのですか?
それとも多少なりとも違うものなのですか?」
神様が言います。
「同じものだ。
苦しんでるものがいたら苦痛を取り除いてやりたいと願い、
敵対する立場のものにもbrotherhood、friendshipを持ち、
幸せを祈ることこそが、未来の予知よりなにより大切な要めなのだよ。」
そういわれてすぐに思い出すのは、最後までアウシュビッツの看守にまで
丁寧に穏やかに挨拶をしていたコルベ神父や、
イスラム教の偉大な英雄サラディンです。
自分はとても及ばないけれど、
そういう人がこの世にいたことはいつも感じて、
そういう人々を尊敬して生きていたい。
そんな風に思ってたところで目が覚めました。
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