徳川家康がまだ元康と名乗っていた頃の夢を視ました。
馬に乗っている家康。
馬には「厭離穢土欣求浄土」という印が押されています。
徳川家康がまだ元康と名乗っていた頃、
今川氏に人質として行く途中で家臣に裏切られて、
今川氏と敵対する織田氏のところに届けられ、
そのまま織田氏の人質として信長と共に暮らしました。
その後、信長の兄の織田信弘との人質交換として今川氏の元に送られます。
桶狭間の戦いで今川義元が討死した後、
菩提寺である三河国大樹寺に匿ってもらった元康は
松平家の墓前で自害しようとしましたが、
13代住職の登誉に「厭離穢土欣求浄土」の話をされて、
切腹を思いとどまり、平和な世界を作りたいと望みます。
その後、信長と同盟を結び、最後には徳川幕府を作り、
戦乱の世を安定させました。
神様が言います。
「彼のモットーだった『厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)』。
人の幸せを願ったり、苦しみを解決してやりたいと思うには、
あまりに裏切りや私利私欲、見るに堪えないものばかりの世の中で、
とてもじゃないけれどbrotherhoodやfriendshipを抱くのは
難しいでしょう。
でも、あなたはウィグル族の人々がたくさん殺されているのを見て、
かわいそうだと思ったでしょう。
もしウィグル族を殺している中国人があなたにはとてもいい笑顔を見せて、
とてもよくしてくれる優しい人であって、
たまたま接したウィグル族の人があなたに不快なことをしたら、
同じ気持ちを抱くだろうか・・・?
・・・だから昔から、わたしの呼びかけに触れた人たちは、
世俗から離れて生きるのです。
いろいろな不快なものが渦巻く世界が穢土。
そこから離れて、誰もが苦しみのない、いい生涯を送れる浄土を望むのが、
『厭離穢土欣求浄土』の意味で、
差別や対立を離れて、ひとが作ったもの以前にはじめにあったのは
ただ平等に地上に命があった、ということに気付いて、
私利私欲から離れて、穢土の中でもbrotherhoodやfriendshipを
抱いて穏やかに生きられることを涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)と
言うのです。」
わたしは話を聞いて、
「『江戸』は『厭離穢土欣求浄土』を願って『穢土』からつけた地名なんだろうか。
家康は戦乱の真っただ中に生きて、戦場もたくさん経験していて、
決して人里離れた山の上で人から離れて生きていたのではない。
でも、こうした生き方をしつつ、裏切りや陰謀や死を願う人もいる中で
『厭離穢土欣求浄土』を実現したのはすごい。」
などとあれこれ思っているところで目が覚めました。
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