わざわざ書くまでもなく、「知ってた」と言われそうですが、
夢の中で福島第一原発2号機の凄まじく大きな閃光を視ました。
閃光を視ているときに、隣にいた見知らぬ人たちが塩の柱になっていました。
光と塩というのが何か神的な象徴に思えたので、夢を書き留めておきます。
同時に夢にこういう形で出るのだから、2号機は相当大変な状態なのだろうと思いました。
わざわざ書くまでもなく、「知ってた」と言われそうですが、
夢の中で福島第一原発2号機の凄まじく大きな閃光を視ました。
閃光を視ているときに、隣にいた見知らぬ人たちが塩の柱になっていました。
光と塩というのが何か神的な象徴に思えたので、夢を書き留めておきます。
同時に夢にこういう形で出るのだから、2号機は相当大変な状態なのだろうと思いました。
世田谷一家殺人事件について「声」が触れる夢を視ました。
あの日、家の持ち主たちが疲れを取ってリラックスする風呂場が
加害者が血を洗う忌まわしい場所となった
ゆっくり休息を取る「自分の居場所」である家が
自分をこの世から排除しようとする力に支配され、
自分をこの世から去らせる場所となった。
なぜそんな話をいまされたのかわかりませんが、
なぜか夢の中ではその話を聞いて、
バチカンが人々の癒しの場所から血なまぐさい場に変わるような気がしました。
あるいは他の聖所や憩いの場、癒しの場かもしれません。
根拠はなく、ただ夢の話ですが、どうも気になるので書き留めておきます。
夢の中で神様が「神との対話は赤い蝋燭だよ」とおっしゃいました。
赤い蝋燭というと小川未明の「赤い蝋燭と人魚」をまず思い出しました。
災難と関係があるのかと思ったら、
「あなたの好きな『ごんぎつね』を書いた新美南吉にもあるよ。」と言われました。
目が覚めて調べてみたら、ほんとに新美南吉の「赤い蝋燭」という小説がありました。
読んでみて、たしかに神様というのはこの赤い蝋燭みたいなものだなあと
感じました。
赤い蝋燭
新美南吉
山から里の方へ遊びにいった猿さるが一本の赤い蝋燭ろうそくを拾いました。赤い蝋燭は沢山たくさんあるものではありません。それで猿は赤い蝋燭を花火だと思い込んでしまいました。
猿は拾った赤い蝋燭を大事に山へ持って帰りました。
山では大へんな騒さわぎになりました。何しろ花火などというものは、鹿しかにしても猪ししにしても兎うさぎにしても、亀かめにしても、鼬いたちにしても、狸たぬきにしても、狐きつねにしても、まだ一度も見たことがありません。その花火を猿が拾って来たというのであります。
「ほう、すばらしい」
「これは、すてきなものだ」
鹿や猪や兎や亀や鼬や狸や狐が押合いへしあいして赤い蝋燭を覗のぞきました。すると猿が、
「危あぶない危い。そんなに近よってはいけない。爆発するから」といいました。
みんなは驚いて後込しりごみしました。
そこで猿は花火というものが、どんなに大きな音をして飛出とびだすか、そしてどんなに美しく空にひろがるか、みんなに話して聞かせました。そんなに美しいものなら見たいものだとみんなは思いました。
「それなら、今晩山の頂上てっぺんに行ってあそこで打上げて見よう」と猿がいいました。みんなは大へん喜びました。夜の空に星をふりまくようにぱあっとひろがる花火を眼めに浮べてみんなはうっとりしました。
さて夜になりました。みんなは胸をおどらせて山の頂上てっぺんにやって行きました。猿はもう赤い蝋燭を木の枝にくくりつけてみんなの来るのを待っていました。
いよいよこれから花火を打上げることになりました。しかし困ったことが出来ました。と申もうしますのは、誰も花火に火をつけようとしなかったからです。みんな花火を見ることは好きでしたが火をつけにいくことは、好きでなかったのであります。
これでは花火はあがりません。そこでくじをひいて、火をつけに行くものを決めることになりました。第一にあたったものは亀でありました。
亀は元気を出して花火の方へやって行きました。だがうまく火をつけることが出来たでしょうか。いえ、いえ。亀は花火のそばまで来ると首が自然に引込ひっこんでしまって出て来なかったのでありました。
そこでくじがまたひかれて、こんどは鼬が行くことになりました。鼬は亀よりは幾分ましでした。というのは首を引込めてしまわなかったからであります。しかし鼬はひどい近眼きんがんでありました。だから蝋燭のまわりをきょろきょろとうろついているばかりでありました。
遂々とうとう猪が飛出しました。猪は全まったく勇いさましい獣けだものでした。猪はほんとうにやっていって火をつけてしまいました。
みんなはびっくりして草むらに飛込み耳を固くふさぎました。耳ばかりでなく眼もふさいでしまいました。
しかし蝋燭はぽんともいわずに静かに燃えているばかりでした。
底本:「新美南吉童話集」岩波文庫、岩波書店
1996(平成8)年7月16日第1刷発行
1997(平成9)年7月15日第2刷発行
底本の親本:「校定 新美南吉全集第三巻」大日本図書
1980(昭和55)年7月31日初版第1刷発行
初出:「幼稚園と家庭 毎日のお話」育英書院
1936(昭和11)年11月15日
入力:浜野 智
校正:浜野 智
1999年3月1日公開
2012年5月8日修正
青空文庫作成ファイル:
数日前に隻眼の鳳凰が空を飛んでいる夢を視ました。
それをきっかけに、
「どうして聖なるものには隻眼が多いのだろう」と
この数日考えています。
いくつかtwitterでメモしたことを書いておきます。
6月4日
片目の鳳凰が空を飛んでいる夢を視て、考えた。
古いアジアの聖典では片目の魚などが出てくるけれど、
片目ってどんな意味があるんだろう。
大学の先生は「片目は百戦錬磨の意味では」と言ってたけれど違う気がする。
旧約の伝承は目をつぶして行ったし、目ってなにか大事な意味を持つ象徴に思える。
※イソップの元となった古代インドの説話集ヒトーパデーシャには
片目の魚が登場します。
盲亀浮木の譬えの亀って盲目じゃなくて片目だそう。
達磨さんも片目だ。http://www.gts-kokoro.jp/blog/?p=20
6月5日
白隠禅師の「 君 看よ、双眼の色 語らざれば 憂い無きに似たり」 と
いう言葉を、どうして良寛禅師は「君看隻眼(片目の意味)色」
(君看ずや隻眼の色)に変えたんだろう。
フリーメーソンの目のシンボルも連想しました。
隻眼は超越存在のキー、そんな気がしています。
昨日、稽古の帰り道歩きながらiPhoneをポケットから出したら、
メモアプリに自動筆記で「無能だから」とありました。
何の話かと思っていたら、
関連する夢を視ました。
夢の中で、大勢の人たちが東電や官邸前に集まって、
「無能だから原発事故の対応が遅れて、
即座に対応していたら避けられた被害をたくさん生み出した。」
と怒っています。
おっとりした顔立ちの議員が
「菅さんは無能なんかじゃない。
よくやったよ。
あれほどの事故を収拾宣言でこの程度の騒ぎで治めたんだから。
ジジババなんかはもう放射能は安全と思って
呑気に海水浴をしたり、魚を喰ったりしてるよ。」
わたしは唖然としながら思いました。
「いえ、それは『よくやった』とか『治めた』と
国民も世界も思わないです。
ほんとうに事態を安全に収拾して、
危険な地域の人は安全な地域に移したり、
食品や水、自然環境への厳しい基準を整えて、
安心して暮らせる状態にして、
はじめて『事故は収拾した』と言えるのでは。
汚染水が放出されている近くでの海水浴は
見た目美しい海でも禁止するべきなのでは。」
でも、政府関係者はみな、
国民が大騒ぎするのを封じた=good jobと捉えていて、
「収集する」という言葉の意味に
あまりに大きなずれがあるのでした。
twitterで先日わたしがつぶやいた、
よく、人は何の為に生きるのかとか考える人がいるけれど、
それはブルジョアジーが悩むことで、
被雇用者側は資本家が楽な生活をするために生まれたのであって、
労働力も時間も搾取、それで得たわずかな賃金も資本家が儲かるために使う存在で、
卵を産むために生まれた鶏と変わらない、などと思った。
へいただいたコメント
わたしはガチガチの貧乏人で、
自らの努力で這い上がって出世したみたいな物語も無いんですが、
卵を産むための鶏みたいなもんか、でもちっぽけだけど頑張って生きるぜ。
それだけは邪魔されたくない。
と開き直ったらちょっと楽になれるのかなと少し思いました
について、夢の中で神様が次のように話されました。
「あなたが子供の頃に読んだ『アンクルトムの小屋』は、
子供の頃には背景まで知らなかっただろうけれど、
リンカーン大統領が誕生する以前に黒人奴隷解放をテーマにしてストウ夫人が描いた小説で、
南北戦争にまでつながる大きな流れを引き起こした。
『アンクルトムの小屋』の中で
黒人女性奴隷のイライザが唯一の生き甲斐である赤ちゃんを
奴隷として売られるのが嫌で、オハイオ川の流氷の上を
裸足で足の裏の痛みも耐えて逃げ切るエピソードがあったのを
覚えているでしょう。
彼女は奴隷生活はつらいことがあっても、
子供を育てて、笑顔をみるときは
幸せを感じていて、がんばっていた。
なら、『いまいるところでささやかな幸せを感じているから』
それでいいのだろうか。」
さらに言われました。
「フランクルの『夜と霧』をはじめ、強制収容所の過酷な中でも、
幸せだった頃のことを思い出したり、
太陽や雲や雑草などを見て、
ささやかに小さな幸せを不幸の中でも感じていた人たちはいる。
でも、幸せがあるし、がんばって生きればそれでいいのだろうか。」
そして言われました。
「ほんとうの自由、解放された上でのほんとうの幸福が必要でしょう。」
目が覚めて思うのは、
いつもいつも絶えず話されるのは、
自由、解放についてなのだなということです。
昨日ふと人間の存在理由についてと
それに関連する人権などについて
思ったことをつぶやいたら、
今朝の夢の中で、
神様が「ロゼッタストーンの碑文を読んでごらんなさい」
とおっしゃいました。
昨日の関連するつぶやきはこちらにまとめました。
卵を産む鶏
よく、人は何の為に生きるのかとか考える人がいるけれど、
それはブルジョアジーが悩むことで、被雇用者側は資本家が
楽な生活をするために生まれたのであって、労働力も時間も搾取、
それで得たわずかな賃金も資本家が儲かるために使う存在で、
卵を産むために生まれた鶏と変わらない、などと思った。
2012/11/11 21:54:38
@Brokensword908 同感です。ただ、まず自分が世界内で
どういう存在なのか知ると、逆にその中で幸せな選択が
増えるんじゃないかと思います。学校制度などのせいで、
徳川の末裔もホームレスも皆人間1人の命は地球より重いと教わっていて、
それが招いた不幸や過ちが多すぎると感じました
2012/11/11 23:14:25
国家や社会からみたら搾取されるための存在だから、
被爆からの救済無し、原発作業員のような危険な仕事も十分な人権がない。
自分の存在がどういうものか知った上で敢えてそれを選ぶならいい。
でも、ちゃんと人権がある、国家は守ってくれると思っているとそれは違う。
自分は自分で守らないと。
2012/11/11 23:20:29
@Brokensword908 神様は人間にとって都合のいい存在ではないですね。
なんていうか悲観的ではなくて自分の立場や社会の絡繰りを知るのって大事だと思います。
そうすれば木を伐採するなら自分を切れと立ちはだかって切られることもないし、
もっと自分を慎重に大事にできるから。
2012/11/12 00:15:23
@Brokensword908 実はあのツイートの後、入浴中にバナナの夢の話を言われてました。
力ある者が弱いものを搾取する社会システムを作ったのは人間だって。
原始時代や戦国時代ならわかるけれど、そろそろ無力な貧しい人にももっと人権と
自由に生きやすい制度が欲しいと思いました。
2012/11/12 00:18:49
この一連のつぶやきにたいして、
夢の中で神様に「ロゼッタストーンの碑文を読んでごらんなさい。」と
言われたのです。
ロゼッタストーンはエジプトの神殿の石柱の一部で、
1799年、ナポレオンエジプト遠征の際、エジプト遠征中の
フランス軍兵士ピエール=フランソワ・ブシャール大尉によって、
エジプトの港湾都市ロゼッタで再発見されたものです。
プトレマイオス5世のため紀元前196年にメンフィスで出された勅令が刻まれていて、
三つの文字、すなわち古代エジプト語の神聖文字(ヒエログリフ)と
民衆文字(デモティック)、ギリシア文字で記述されていて、
シャンポリオンによって1822年に解読されました。
碑文の内容のうち、つぶやきの内容と関連があるところを
ご紹介します。
自身も神である者、エジプト全土の聖所とそれに仕える者たちに対して寛大で、
自ら歳入の一部を彼らの給与や食料に充て、神殿の繁栄に努める者、プトレマイオス。
彼は治世中、すべての者が富み栄えるために民の税を軽くした。
国家に対して債務を負っていた数他の者たちを、それから解放した。
投獄されていた者、裁判を待っている者たちに恩赦を与えた。
エジプトへの侵入を企てる者たちを撃退するために軍馬、歩兵隊、海軍を備え、
国家安全のために膨大な経費や穀物を費やした・・・・
日本はいま、富める者たちが利権を貪り、楽しく暮らすために、
貧困者が増えている状態。
たしかにロゼッタストーンの碑文に現在の状況の解決策のヒントが
あると感じました。
不思議なアーティストの夢を視ました。
彼女は2011年1月の夢にも現れました。
同心円、露の玉のアートを作っていました。
豪華船に乗りたいのに、わたしと家族だけ
なぜか乗せてもらえませんでした。
1年後にイタリア豪華客船沈没事故があって、
夢に視たのと同じ船でした。
同心円、露の玉は沈没を意味していたのかなと
いう気がしました。
今朝の夢の中でまた現れた不思議なアーティストは、
カメラを環状七号線のような大きな通りや、
草原やビル街、湾岸など数か所に設置して、
毎日毎日同じ風景を同じ位置で写真を撮って、
それをパラパラアートの動画にしました。
毎日同じ場所を同じ位置から撮っているのに、
不思議なことに画面が動いているんです。
道路が高くなったり、低くなったり、
満ち引きみたいに動いたり。
大地って地震というほどではなくても、
生きていて動いているんだなと
驚きました。
それと同時に、こんなことを思いました。
毎日同じ道を歩いていて、
木々が新芽を出して、青葉になって、
花が咲き、実を結んで、
紅葉して、葉が落ちていくという
変化を毎年していて、
そこにたむろう虫や鳥たちも
季節によって移り替わっている。
1年の間には世界ではたくさんのことが起こって、
絶えず変化していて、
1日1日は何も変わり映えがなく、
もどかしいくらいだけれど、
こんなにも大きな変化をしている。
そんなことを改めて思っているところで目が覚めました。
夢の中で、ホームレスたちが河川敷で生活しているところを通りました。
らい病患者や冷たい場所で寝て足腰を悪くした人もいるみたいでしたが、
医療費もなく放置されていました。
わたしは思いました。
この世には、富める人と貧しい人、
恵まれている人、不遇な人、
健康な人、病気や身体に障害がある人、
運、不運、美醜。
幸せな人、不幸せな人、
穏やかな人、激しやすい人、
正直な人、うそつきな人、
いつも両方があります。
なぜ神様はよいものだけではなく、
反対のものも作られたのでしょう。
人間の試練のためなのでしょうか。
神様がこうおっしゃいました。
わたしはバナナという植物を作った。
それをたくさん育てる農園を作ったのも、
貧しい農民を搾取して安価で豊かな人々が
おいしい食卓を楽しめるシステムを作ったのも
人間だ。
なるほど、現在の世界の様々な問題は、
いろいろな人間社会のシステム上の問題であって、
神様が試練としたり、わざわざ苦しめるために
作ったものではないのか。
リンカーンが奴隷解放を実現させたように、
キング牧師が公民権運動をしたように、
ガンディーが公民権運動や独立運動をしたように、
人間が作ってしまった悪しきものは、
人間が変えれば変えられるものなのか、
そんなことを考えていたら、目が覚めました。
ものすごくひさしぶりに、かつて何度か夢に見た
静かで穏やかな僧侶の夢を視ました。
今回の夢の中では手で印を結んで、
穏やかで優しい表情で立ったまま禅定に入ってるように、
静かにわたしの前に佇んでいました。
広隆寺の弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)に似ていました。
何も語らないのに、自分の中の雑念、せわしなさを
正されるものがありました。
「この世界がやはり一番美しくて素晴らしいなあ」と
四門出遊の説話で最後に僧侶をみたときの
仏陀の気持ちがわかる気がしました。
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